御 土 居

についての自由研究

1. 御土居とは



御土居の全体図

豊臣秀吉によって築かれる

御土居(おどい)は、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が、当時の京都の市中を囲むように築いた土塁(および堀)です。市中南北の通りの開設(天正の地割)、寺院の移設による寺院街(寺町通・寺之内通)の形成などの秀吉による京都の都市改造の1つとして行われました。

市中を囲む土塁は、全長5里26町(約22.5km)に及ぶもので、北は鷹峯、南は東寺、西は現在の西大路通、東は現在の河原町通にまで至ります。

天正19年(1591年)に着工され、その年内にわずか2ヶ月ないし4ヶ月の間で作り上げられたとのことです。墨俣城を一夜にして築いた(ように見せかけた)彼の土木の手腕がそこに現れているように思います。

このあたりの秀吉のことを簡単に書いておくと、1585年に関白になり、1586年から聚楽第の建設開始。1587年に聚楽第に移る。1590年に小田原城陥落、1591年の年末に関白を秀次に譲ったとのことです。そこから最晩年は伏見が舞台となります。

土塁と堀のセット−「御土居堀」

御土居は、土塁(土居)と、その外側に併設された堀とセットになって設置されていました。場所によっては、自然河川を利用したところもあります。そこで、「土居」だけでは堀の部分が含まれないことから、「御土居堀」と呼ぶことを提唱する動きが見られます。

確かに、「御土居」というだけでは、それが市中をぐるりと囲んだ羅城(城郭)であったことはなかなかイメージできないのではないでしょうか。「堀」という言葉があれば、少しイメージが近づきます。いわゆるお城は周りを堀が囲んでいますしね。

御土居築造の目的は?

秀吉の御土居築造の目的は何だったかというと、敵襲に備えたとか、鴨川の洪水対策とか、いろいろ推察はなされていますが、明確な答えはどうも得られないようです。土塁と堀とで囲んだという事実がそこにあるに過ぎません。だからこそ、そこに「なぜ?」という探求のロマンがあるのかもしれません。



2. 御土居と京の七口へ進む


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