京の七口
もう一つはっきりしている事実として、御土居のいくつかの場所では通路が設けられました。最初は数も限定されていたようですが、時代が下がるにつれいくつもの通路が開けられていったようです。
秀吉による築造時に、どこに通路が設けられていたのかということは断片的にしか判明しておらず、その数は一説には十口と言われますが、いくつであったかということはわかりません。
江戸時代初期に初めて御土居全体を示した平面図では、大小四十もの出入口が描かれていたそうです。
「京の七口」という表現があり、周辺地域からの街道と京都の出入口の総称であり、御土居築造時に開けられた出入口にはじまるとよく言われています。 しかし、上にもあるように、秀吉による築造時に設けられた通路(口)の場所ははっきりしていません。
また、「七口」という表現は江戸時代に入って史料によく現れる表現となりましたが、その場所は定まっていません。なかでも、明らかに江戸時代になってからひらかれたことがわかっている竹田街道の出入口、竹田口が入っていたりすることもあるから、代表的な京都の出入口を七つあげてみたということのようです。
ただ、「口」という言葉は江戸時代になって定着したことから、御土居に物理的に開けられた出入口が「口」という言葉を好んで使わせるようになったのかもしれないなあと思っています。
ここでは、「七口」としてよく示される場所を図示しました。また、その口がどこにつながっているかの概略を示したものは以下のとおりです。
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