私がこのページを作ろうと思ったきっかけは、京都市文化財保護課による御土居の説明のページを読んだ後、御土居の痕跡を見て回ったときに、「江戸時代になって大半がなくなったにもかかわらず良く残っている」と思いこんでいたのですが、明治時代の地図を見たときに西側のほとんどが原型のまま残っていることを知り、「もっと残せなかったのか」というように思ったことです。
どうも、あの文章はミスリードしがちですので、明治時代に入ってからも大部分が残っていたことを知ってもらうことだけでも意義深いことだと思います。
ちなみに、御土居については、京都市歴史博物館のサイトであるフィールドミュージアム京都のこの説明がよいです。
明治22年の御土居の残存状況
左の図は、明治22年(1889年)に陸軍測地測量部によって測量・作製された2万分の1の仮製地形図をもとに「土囲」(土居)として図示されている部分をなぞったしたものです。(一部後年の地図で土居として図示されていながら、この地図では判別できないものを含みます。)
御土居が築造されてから約300年(正確には298年)経っているにもかかわらず、西側や北側でその大部分が残っていることがわかります。
なお、東寺の北、丹波口の南側の七条〜八条間で御土居が無くなっているのは、東海道本線によるものと推測されます。なお、東海道本線ができるまでは、東寺の北東部、現在の京都駅周辺の御土居も残っていたようです。
明治42年の御土居の残存状況
左の図は、明治42年測量の2万分の1地形図の「土囲」(土居)として図示されている部分をなぞったしたものです。(一部後年の地図で土居として図示されていながら、この地図では判別できないものを含みます。)
現在の山陰本線が1897年に開通するなど、明治22年(1889年)の図と比較すると、西側三条以南での消失が著しくなっています。
大正11年の御土居の残存状況
左の図は、大正11年測量の2万5千分の1地形図の「土囲」(土居)として図示されている部分をなぞったしたものです。(一部後年の地図で土居として図示されていながら、この地図では判別できないものを含みます。)
明治42年の図と比較すると、西側三条以南での消失がさらに進むとともに、「御土居の袖」にあたる部分も消失が始まっています。
昭和6年の御土居の残存状況
左の図は、昭6年測量の2万5千分の1地形図の「土囲」(土居)として図示されている部分をなぞったしたものです。
二条以南では土塁が確認できなくなっており、御土居の袖以北でも土塁の消失が進んでいます。 また、北東部に目を移すと、紫竹地域の区画整理によって、御土居が消失しています。
現在の御土居の残存状況
現在の御土居の残存状況を示したものが左の図です。現在では大部分が消滅していることがわかります。
次は部分図によって、地形図による御土居の変遷を見ていきます。なお、この5枚の変遷の図は下にある「手動操作」で、ボタンを押すことによって手動で切り替えて確認できます。よろしければどうぞ。
また、この御土居の変遷について、実際の地形図によって確認できるページ「地形図で見る御土居の変遷」を用意しています。次はそちらをご覧ください。
以下のボタンを使って、地形図の年、通り名等の表示・非表示、御土居跡の表示・非表示を切り替えることができます。
3.御土居の残存状況に戻る
地形図で見る変遷−御土居−に進む