地形図で見る変遷

御 土 居

(12)京都駅周辺


注意

※使用されている画像の無断複製・転載を禁じます。
※重ね合わせている御土居跡の帯は推定線です。部分・年によっては実際と異なる場合があります。
※ところどころで、重ね合わせている御土居跡の帯(全年共通)に合わせるため、残存御土居の着色がずれています。


現在:平成17年(2005年)

七条高倉から北では、御土居は建造当時と江戸時代中〜後期では場所が異なっていました。建造当時は七条高倉から北北東に向かっていました。枳殻邸の建設(1648年から)に伴い、七条高倉から東に向かい、現在の高瀬川の西で北に向かっていました。なお、高瀬川のルートもこの枳殻邸の建設に伴って現在のルートになっています。
七条高倉西側からは真南に進み、現在の塩小路通と八条通の間あたりで西に進路を変えます。そして、油小路通で進路を変え真南に進んだ後、九条通りで再び西に折れ、東寺の南側へと続きます。
現在史跡となっている部分はありません。 よく、京都駅1番ホーム(現在の0番ホーム)は御土居の土塁を利用している、ということが言われますが、正確には御土居の堀の上にあたり、また駅を作るときにはすでに土塁はなかったそうです。

下のボタンで、左図の通り名等の表示・非表示と御土居跡等の表示・非表示を切り替えることができます。



明治22年(1889年)

東海道本線が現在の塩小路通を通り、高倉通りのあたりから南東に進路を変え、鴨川を渡っています。このためか、御土居は現在の八条通から南側にしか確認できません。
高倉通のあたりの七条通の北側に水路が見えますが、これは「内浜」といって高瀬川水運の荷物の上げ下ろし場でした。内浜というのは、これが御土居の内側であったことからついたそうです。(他の舟入はすべて御土居の外側となる部分に位置していました。) この後にできた七条河原町の市電の停留所名も戦後しばらく後までは「七条内浜」と言ったそうです。(その後七条河原町に改名。)

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明治42年(1909年)

竹田街道に京都電気鉄道による路面電車の軌道が走っています。また、油小路通の近くに現在の近鉄京都線の原型である線路があります。このためか、御土居も九条通り近辺の一部にしか残っていません。
あと、明治22年でもそうなのですが、京都駅が現在よりも北の塩小路通に近いところに位置しています。
油小路通と高倉通の間の御土居の跡には既に建物が建っており、「京都駅の1番ホーム(現在の0番ホーム)が御土居の土塁を利用したもの」というのは無理のある説だと考えられます。

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大正11年(1922年)

既に御土居の土塁を確認することはできなくなってしまいました。 また、内浜がなくなっています。内浜は七条通の拡幅によって埋め立てられ、なくなったそうです。 また、東海道本線に東山トンネルが開通し、それまでのルートは奈良線として利用されるようになりました。このとき、京都駅は現在の位置に移動しています。

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昭和6年(1931年)

京都駅の南側も市街化が進んでいます。御土居は既に見えなくなっています。

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手動操作

以下のボタンを使って、地形図の年、通り名等の表示・非表示、御土居跡の表示・非表示を切り替えることができます。











地図の出典


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