地形図で見る変遷

御 土 居

(8)鞍馬口周辺


注意

※使用されている画像の無断複製・転載を禁じます。
※重ね合わせている御土居跡の帯は推定線です。部分・年によっては実際と異なる場合があります。
※ところどころで、重ね合わせている御土居跡の帯(全年共通)に合わせるため、残存御土居の着色がずれています。


現在:平成17年(2005年)

北から賀茂川に沿って進んできた御土居は、鞍馬口周辺で下流に向かって二筋に別れるようになった部分があったようです。このあたりは地形の関係上洪水がよく起こったところで、それを意識したつくりとも言えます。
鞍馬口通には七口の一つに数えられる鞍馬口がありました。ここから寺町通が続いています。 地図の南端が桝形であり、七口の一つに数えられる大原口はこの周辺の寺町今出川のあたりです。大原に続くのは今出川通にあった方の口で、桝形にも口はありましたが、賀茂川と高野川のデルタ地帯への口として鴨口とも言われていたようです。
この地図内には史跡として指定されている部分はありません。

下のボタンで、左図の通り名等の表示・非表示と御土居跡等の表示・非表示を切り替えることができます。



明治22年(1889年)

鞍馬口通の北側まで土塁が続いています。(南端で土塁がきれている部分がありますが、明治42年の地図で「土囲」としてしめされていることから、ここも着色しています。)
また、鞍馬口以南では土塁として示されている部分はありませんが、御土居の推定線を重ねると、ちょうど竹林となっており、御土居が残存していたことが推測できます。

下のボタンで、左図の通り名等の表示・非表示と御土居跡等の表示・非表示を切り替えることができます。



明治42年(1909年)

鞍馬口通の北で琵琶湖疏水の疏水分線が開削され、御土居を横切っています。また、鞍馬口通が賀茂川を渡るところに出雲路橋(図中では出雲橋)が架けられています。
明治22年同様鞍馬口以南では土塁として示されている部分はありませんが、御土居の推定線を重ねると、ちょうど竹林となっており、御土居が残存していたことが推測できます。

下のボタンで、左図の通り名等の表示・非表示と御土居跡等の表示・非表示を切り替えることができます。



大正11年(1922年)

相国寺周辺で市街化が進んでいます。鞍馬口通から疏水分線の間の土塁が消滅しています。また、明治42年の地図において御土居の推定線上で竹林が続いていた部分で、一部竹林が消滅しています。

下のボタンで、左図の通り名等の表示・非表示と御土居跡等の表示・非表示を切り替えることができます。



昭和6年(1931年)

市街化がさらに進み、土塁は完全に消滅しました。また、御土居の推定線上の竹林も本満寺の南側のみとなっています。

下のボタンで、左図の通り名等の表示・非表示と御土居跡等の表示・非表示を切り替えることができます。



手動操作

以下のボタンを使って、地形図の年、通り名等の表示・非表示、御土居跡の表示・非表示を切り替えることができます。











地図の出典


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