地形図で見る変遷

御 土 居

(4)円町〜北野天満宮


注意

※使用されている画像の無断複製を禁じます。
※重ね合わせている御土居跡の帯は推定線です。部分・年によっては実際と異なる場合があります。
※ところどころで、重ね合わせている御土居跡の帯(全年共通)に合わせるため、残存御土居の着色がずれています。


現在:平成17年(2005年)

御土居の西端部、円町付近には「御土居の袖」と呼ばれる西側に突き出た部分があります。さまざまな推察がなされています。
故足利健亮氏は、秀吉が西方からの勢力に気を払い、建造当時御土居の西辺には、丹波口から鷹峯の長坂口の間に通路は設けられなかったとし、この「御土居の袖」は西方への見張りのため推測しています。一方で、当時の史料から秀吉による建造時に既に寺之内通に通路が開かれていたことが読みとれるという指摘もあります。
現在、この御土居の袖の北辺にあたる部分が北野中学校校内に残されています。(史跡には指定されていません。)
御土居は一条通の少し北で紙屋川(現在の天神川)をまたぎ、ここから御土居の北西端まで紙屋川を堀として用い、自然地形を活かしたつくりとなっていました。現在、北野天満宮の西側に御土居が残っており、史跡に指定されています。

下のボタンで、左図の通り名等の表示・非表示と御土居跡等の表示・非表示を切り替えることができます。



明治22年(1889年)

御土居建造当時、御土居に通路は設けられていませんでしたが、この時には天神川との交点(2ヶ所)、妙心寺道、一条通など数ヶ所の道等で御土居が開いています。それ以外では、ほぼ原型をとどめる形で残っています。

下のボタンで、左図の通り名等の表示・非表示と御土居跡等の表示・非表示を切り替えることができます。



明治42年(1909年)

山陰本線が敷設されましたが、ほぼ原型をとどめる形で残っています。

下のボタンで、左図の通り名等の表示・非表示と御土居跡等の表示・非表示を切り替えることができます。



大正11年(1922年)

御土居の袖の部分を中心に道や建造物によって御土居が寸断されるようになっています。

下のボタンで、左図の通り名等の表示・非表示と御土居跡等の表示・非表示を切り替えることができます。



昭和6年(1931年)

嵐電の北野線が御土居を超えて、北野天満宮の南までのびています。(その後、御土居を超えた部分は今出川通となり、現在の北野白梅町駅が終端となっています。)その周囲の御土居が地図上では確認できなくなっています。
また、御土居の袖の北側部分では、御土居の外側と市街地が連担しだんだんと御土居の形がわからなくなってきています。

下のボタンで、左図の通り名等の表示・非表示と御土居跡等の表示・非表示を切り替えることができます。



手動操作

以下のボタンを使って、地形図の年、通り名等の表示・非表示、御土居跡の表示・非表示を切り替えることができます。











地図の出典


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